【オピニオン】Veganismと種差別の定義について

Veganismと種差別の定義について

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Veganismと、種差別主義への反対である反種差別、どちらも互いに密接に関係しているけど同じじゃない、そして、人によっては定義も少し曖昧。この記事では、これらの概念を整理してみようと思います。


Veganism


まず、veganismとは何でしょう。veganismという用語を与えたドナルド・ワトソンによって創始されたVegan Societyの定義によれば

Veganismとはできる限りかつ実践的な範囲で、食べ物や衣服、そしてその他のあらゆる目的のために、動物たちを搾取したり、残酷な扱いをすることを避けるよう心がける生き方である。

とされています。ここで、念頭に置かれていたのが、食事だけでなく、衣服やハンティングや娯楽のためなど、あらゆる目的での人間による動物の利用の廃止を目指すことです。

この考えのもとにあるのが、例えヒトでなくとも、同じように喜びや自由を享受し、苦しみを経験する存在であるのなら、ヒトでないという理由で他の動物たちを粗末に扱うことは正当化されないという考え、つまり種差別への反対です。

言い換えれば、veganismは、他者を残酷に扱ったり利用しないよう心がけて生きることを意味しているのであり、自分の健康や他の目的のために実践する菜食主義などとは異なるのです。

翻訳家の井上太一さんは、この点を強調するためでしょう。veganismの訳語として「脱搾取」という用語を用いることを提案しています

種差別


種差別という概念についてもう少し詳しく考えてみましょう。種差別とは、人種やジェンダーを理由に行われる差別にならった概念で、種が異なるということを理由に、相手を適切に配慮しなかったり、不当に扱ったりすることを正当化することです。より具体的には、相手の権利を侵害したり、利害を粗末に扱ったりすることを、種が違うからいいだろうと考えることです。

しかし、ここでveganの間でも、veganでない人の間でもよく見られる誤解があります。それは「相手が例えどんな種に属していても、どんな生物であっても、同じように扱わないと差別になるのだな」というものです。ですがこれは正しくありません。

例えば、上に述べた権利とは、何も人間の持つすべての権利と同じものというわけではありません。ヒトでないほとんどの動物にとって、選挙権や教育を受ける権利はあまり意味をなさないでしょう。しかしゲイリー・フランシオンは、意識的な知覚を持つあらゆるものには、それらが持ちうる他のすべての権利に先立って、「他者に単なる物として利用されない権利」が認められると主張します。この考えを念頭に種差別について考えれば、喜びや苦しみを経験できるものを単に道具として利用することは間違いであり、例え種が異なっていても、それを正当化する理由にはならない、ということになるでしょう。反対の見方をすれば、植物や菌などを差別することは原理的にできないということになります。


一方、ゲイリー・フランシオンらとは異なる思想を持つピーター・シンガーを始めとする功利主義者たちは、権利という概念を前提にしません。彼らが重要と考えるのは、相手の持つ利害です。しかし配慮の必要な利害を持つ条件は意識的な知覚をもつことであるため、彼らが配慮の対象とする範囲は結果的にほとんど同じようなものとなります。これらの立場の間の大きな違いの一つは、もし全体の大きな利益になるのなら、権利を認めるものであれば決して承認しないような形で、少数のものを犠牲にすることも良しとするところでしょう。彼らは例えば何万もの人間や他の動物を救う可能性があるのなら、動物実験も許されるという立場を取ります。しかし重要なのは、そこで実験に利用されるのは、従来利用される動物と同じ程度の認知能力を持つ人間で置き換えても、同じように許されると考えるところです。そしてまた、彼らは動物実験を積極的に推奨しているわけでもないうえ、彼らの基準に基づいても現実にこのような選択を正当化するような営みはほとんど存在しないため、結果的に現在人間が行っている動物の利用の大半は正当化できないと考えます。

このあたりのお話は、『あにまるえしっくす』という現在twitterで公開されている漫画でも学ぶことができます。


また、注意しなければならないのは、「種」差別とはいっても、ここで想定されている権利や利害を持つのは、各動物個体であって、「種全体」ではないということです。例えば最近『絶滅できない動物たち』という本が出版されました。



人間の科学研究や博学的な趣味のために、無理やり繁殖を強いられたり、すでに絶滅した種に属していながら、科学技術によって復元されようとしている動物たちに関する著書です。この著書での具体的な議論に関わらず、もし「種の利益」というものが重要な形で存在するのなら、このような試みにも道徳的な正当性が認められる余地があります。しかし、実際にはこれらの営みは、人間ではないということを理由に動物たちを利用しているにすぎません。反種差別と生態系中心主義と呼ばれるようなものの明確な違いはここにあります。veganで動物のために環境に配慮する人は多いですが、こういった個体ではなく、種や生態系全体を優先する見方を含んだ環境主義は、その意味で種差別的であると批判されます。もし対象となる種がヒトであったら、誰かを人類という種の存続のためにそのような扱いをすることは通常認められないだろうからです。

種差別の広さとVeganismの狭さ


veganismと種差別についてとても簡単に説明しましたが、現在の反種差別の認識や、veganismが反種差別の実践としてカバーする範囲は狭すぎると議論する人たちもいます。鍵となるのは、veganismは私たちの生活の中での動物の利用を廃止することを目指すものであり、私たちの生活と直接のかかわりのない動物たちの感じている痛みや苦しみについては直接何も語られていことです。

それでも、「動物」は私たちの生活にかかわりのある動物たちだけではありません。自然界では助けを必要とする多くの動物たちがいます。自然界は飢餓や病気、怪我や捕食の恐怖などに満ちており、穏やかに生きる動物たちというイメージは幻想でしかありません。もし種の違いによって助けを必要とするものの苦しみを無視するべきではないと考えるのなら、つまり種差別に反対するのであるのなら、私たちは野生動物であっても助けを差し伸べるべきだという主張も益々見られるようになってきています。例えばウィル・キムリッカ とスー・ドナルドソンの著書『人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論』は野生動物への介入にも触れ、動物倫理の支持者の多くにも新たな洞察を与えました。彼らは「市民権」などの積極的な形の権利を他の動物たちに与えることも提案します。しかし、彼らの主張は先に述べた生態系中心主義に陥っており、もっと積極的な自然への介入が必要だと議論する人たちもいます。(『人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論』については、DavitRiceさんのブログにも概要記事があります。)

veganismは私たちに対する最低限の道徳的要請であると同時に、まだまだ多くの人々がveganですらありません。しかしすでにveganである私たちは、一人でも多くの人にveganとしての生き方を始めてもらうよう努力を続けると同時に、veganismの先にある反種差別運動も進めていかなければならないのかもしれません。

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